テクストへのアクセスとその利用

フルカワさんのエントリ経由で、大学のレポートにおけるコピペの問題について読んだ。
正直、私も学部のころは本の丸写し的なことやった覚えがあるので、モラルがどうのなんて言えない。デジタル化されたテクストなんていくらでも再利用され得るのだから、今の時代、「コピペでレポート」なんて状況が出てくるのは当然といえば当然なのかも知れない*1

レポートを課す意味

フルカワさんの記述に刺激されて、ふと思ったのは、「何故レポートを課すのか」を教員の方がきちんと意識しているのか、それが学生にきちんと伝わっているのか、という問題もあるだろうということ。学生なんて、課題を出されたら、とりあえず答えを出しておけば(それがどんな方法・水準であれ)OKと考えるものでは。
しかし、この話題の大元になった日記にもあるように、

無断引用はいけませんというのは、アカデミックなお行儀の良さだけでなく、情報的存在としての「自分」と社会との位置関係を言語を通じて知るという普遍性に繋がっている。それを学ぶひとつの拠点が大学であって、だからこそ情報倫理的なことを口うるさく言っていたはずなのだ(逆にお行儀の良さだけを情報倫理として教えていると骨身にならないと思う。ばれなければいいやということにもなるのかも)。
と、情報の受容と操作を通じて自己の相対化を図る訓練として考えるなら、課題をクリアすることではなく、その過程で何かを学ぶことが目的であるということを伝える努力はすべきだと思う(そんなことを大学で言わなければならないことの哀しさは別にして)。
尤も、そのためには教員もちゃんとフィードバックを返す必要があるだろう(勿論、大学教授が雑用に追われるような現状でそれがどれだけ可能かという問題はある)。上記の日記を紹介したARTIFACT@ハテナ系のコメントにあるようなレポートがまかり通るのは、教員もまともにレポートを読んでない場合があるってことなのだから。

テクストのアクセシビリティ歴史学

それから、本題とはずれた反応になってしまうけれど、

今の世の中、少々まとまったテクストなんていくらでも手に入ってしまうし、どんな貴重な古書のテクストだって極東の島国にいても読めてしまう。そうするとかつて貴重なものとされていた価値観、つまり「そのテクストを知っているということ」そのものに価値が生まれる、という価値観がゆらぐ…それが現代ということになる。
という記述から、少し前の chorolyn さんの写本利用についての話を思い出した(というか、私にはこっちが本題。だからこれを書いた)。
所謂「写本讃美」も史料へのアクセス(入手だけでなく解読も含めて)の難しさからくるところがあるわけで。だから、「知っていることが価値を持つ」という考え方に無批判なうちは、容易にアクセスできないものを探して使うこと自体が自己目的化する危険性がある。史料を問題意識から評価するのではなく、使われていないという点のみから評価することになってしまうのだ。
今後ネットの発展などでテクストへのアクセスが益々容易になるにつれ、この問題は大きなものとなってくるだろう。「史料に埋れるな」の厳訓は、これからの時代にこそ、しっかりと受け止めていかねばならない。

*1:ちょっと違うかも知れないけれど、ドイツでも Hausarbeiten.de なんていう、小遣い稼ぎにゼミレポートを売るようなサイトがある。金払うだけ、コピペよりマシかというと…?