数年前のことだ。私は、とあるシンポジウムの運営にたずさわった。実質、現場の責任者だった。困ったことに、企画運営を行う人間のほとんどが、この手の催し物を行うことにほとんど経験がなく、それは私とて例外ではなかった。熟練の経験者の助言を得ながら準備が進められたこの企画は、しかし当日、いくつか不予のトラブルに見舞われながらも、なんとか終了した。

進行の途中、照明のトラブルに対して聴講者から文句が出た。アンケート用紙に書かれて提出されたそれを、直接受けとった人は周章てたかもしれない。もちろん、私も、ミスが出たことが悔しかったし、強く責任を感じもしたが、しかしその一方で、なにより途中で問題点をきちんと指摘をしてくれたことが有難いとも思った。たとえ、それが厭味たっぷりの書き様であったとしても、身にも皮にもならない当て擦りや陰口を後から言われるのとは違い、はるかに意味のあるものだった。

我々は、行動への言及と人格への言及をとかく混同してしまいがちである。言う側は人格攻撃を行動批判として正当化し、言われる側は行動批判を人格攻撃として受け取り、自己を省みない。中には相手を貶め、そうすることで相対的に自分を高く見せるためだけに批判をする手合いも居るが、皆がそうであると思い込む必要はない。難癖や誹謗中傷でなければ、どんな批判のされ方であっても、受け止め方によっては自分の為になり得る。誤解されていると感じるのであれば、対話を続ければいい。

耳に痛いことは、できれば聞きたくないものだし、批判されるより賞賛される方が嬉しいに決まっている。しかし、自分にとってどうでも良い人間に対して、質問したり、批判したりするほど暇な人ばかりの世の中ではないのだから、対話のできる相手からの批判は先ずはそれとして受け止めたいものだ。そして、肝要なのは、その上でどう行動するかを考えることだろう。そこで、「自分が悪い」とか「自分は悪くない」「相手が理不尽だ」などと《悪者探し》をしたり、逆に「謝れば良いのだろう」と思考停止したり、耳をふさいで顔を背けたりしては意味がない。良し悪しの判断ではなく、行動の次元でのみ、問題の建設的な解消が望めるのだから。

誰しも、誉められれば嬉しいし、叱られれば悲しい。さて、翻って今、私は他人を、うまく批判できているだろうか。うまく褒められているだろうか。