ケルンは低地地方か
5日にH博士が話題を振って下さったので、ちょっと考えてみ…たいのだが、これまで市内部のことばかり注目してきたので、外部との関係はまるで知らないことに気が付いた…。
あまり杜撰なことを書くと、留学から戻られたばかりのTさんに笑われそうだが、「分かってないということを分かる」ためにも、敢えて少し書いてみる。博士が挙げられている論文は、主として文芸思想に関するものだが、それ以外の面ではどうかということも含めて。
前提として、以下では、15-16世紀で言えば、ケルンまでは低地地方
という場合の「ケルン」は「ケルン市」、「まで」というのは「ライン川を遡って」ということを意味するものとする。つまり「ケルン大司教領」や「陸続きの範囲」ではない。
政治的な側面に関して
ケルンは15世紀末に特許状を獲得して、正式に「帝国都市」になったので、この時期、皇帝/帝国との関係は非常に重要だった筈。
また、帝国都市という独立した地位にあるケルンに、他の帝国諸都市と同等というのならともかく、低地地方諸州の一員であるという自己認識があったとは思えない。
経済的な側面に関して
14世紀にハンザの一員であったケルンは、ネーデルラント諸都市とも経済同盟を結んでいる。しかしその後、ネーデルラント諸都市は経済的利害を巡ってハンザ(特に中核のリューベックをはじめとするヴェント諸都市)と対立するようになる。
この際にケルンとの関係がどうなったのかはきちんと調べる必要がありそうだが、いずれにせよ、ライン川貿易の要所であったケルンは、下流の低地地方だけでなく、上流の諸都市・諸地域とも結びつきがあったので、「ケルンまでは低地地方」という言い方は一面的に過ぎて正確とは言えない。
思想的な側面に関して
アルベルトゥス−トマスのドミニカンなケルン大学を中心に、宗教改革を導入せず、「カトリックの牙城」と見なされてきたケルンだが、市参事会内部においてさえも人文主義思想が影響力を持っていたことは Scribner 以降、明白になってきている。
私の関心から言えば、16世紀半ばまでのケルン大学医学部の学生は、ユトレヒト、リエージュ、地元ケルンの三つの司教区の出身者が多いという*1。今興味があってきちんと調べたいと思っている医師も低地地方の出身。
「知の領域における人の移動」という点に限れば「ケルンは低地地方の一部」と言えなくもない、といったところだろうか。