努力と評価

この「努力を評価する」という仕組みは、時として学生を追い詰めてしまうこともある。なぜならば、一般的に努力とは他人の目にどう見えるかであって、自分がどれだけがんばっているかではないからだ。

元の話題とはズレるけれど、ふと思ったので。上記引用では、教員と学生との一対一の関係だけに視点が限定されているが、「他の学生と比較されること」もまた、当の学生にとっては非常に大きな負担となる。とりわけ、頑張っているように見せることだけに力を注ぎ、本来果たすべき責務を他人に押しつけて、評価だけを攫っていく人と比較された場合、どんなにタフな人でも相当堪える。

自分が評価されたいと思う相手の見ていないところでは、一旦引き受けた責任さえも平気で放り出せる人は現に存在する。その無責任な行動の結果、研究室やゼミの運営が滞った場合、教員だけでなく、参加者全員が困ることになる。真面目な人、本当にそこで勉強や研究をしたいと考えている人ほど、その困った事態を回避しようとして、そのことに時間を取られ、ますます自分のための時間を取れなくなってしまう。

そうした事態を把握しないまま、その責任を放棄した当人と比べられたりした場合、何もかもがバカバカしくなってしまう。単に評価されないとか、自ら進んで雑務を引き受けたというのであれば話は別だが、「同じ研究室なんだから」「仲間なんだから」と外側から枠をはめられたなかで他人の尻ぬぐいを強要され、なおかつその当人と比較され、評価に差を付けられるような状況では、真面目な人ほど早く潰れるのは至極当然のことだろう。

教員に限らず、組織の上に立つ者の役目は、責任のなんたるかを知らないアホの相手をすることではなく、そのアホのために余計なコストを支払わなければならなくなった人をケアし、真っ当なリーダーシップ・ロールを担える人間を評価していくことにあるのではないだろうか。

もちろん、これは理想論でしかない。教員の側もそこまで労力を割くことができない現状があるだろうし、学生側にも自身について発信したり、努力のピントを修正したりする必要があるのだろう。ただ、教員側がもう少し学生に関心を持ってくれれば、皆がずっとラクになるのにな、と思うことはしばしばあった。